電力や鉄道など色々な燃料として石炭が使われた時代、産炭地だった田川市はとても賑わっていました。
交通網の発達により新鮮な肉や野菜が手に入り、また、都会から情報や文化がダイレクトに入ってきたため、
産業や独自の食文化が発展していきました。
「田川ストーリーズ×トリックアート」とは、
今なお田川に息づく炭坑の文化が生んだ4つのストーリーを体感できるトリックアートです。
明治時代、炭坑で働く人々は、血糖値の低下を防ぐための糖分補給として、砂糖菓子や羊羹などを持って坑内へ向かっていました。それに伴い、お菓子が贈答品として重宝されるといった炭坑時代独自の菓子文化が発展しました。また、石炭を模した羊羹「黒ダイヤ」が誕生するなど、炭坑文化は今もなお愛される銘菓をいくつも生み出しています。
石炭をイメージしてつくられた羊羹「黒ダイヤ」は今でも約70年前と変わらない製法でひとつひとつ丁寧に作られています。
炭坑の中で汗を流し懸命に働く人たちは、美味しくて栄養満点の「ホルモン鍋」をよく食べていました。当時は、七輪の上にセメント袋をのせ、ホルモンを野菜と一緒に焼いて食べていたそうです。「ホルモン鍋」は炭坑で働く人たちだけではなく、飲食店や各家庭にも広まっていきました。そして、今では田川のソウルフードとなっています。
当時、炭坑で働く人たちは、炭住(たんじゅう)と呼ばれる炭鉱住宅に住んでいました。
炭住に住む人達は仲間意識が強く、お互いによく助けあい、 炭住全体がまるで家族のようでした。
炭住の路上に七輪を置き、採炭会社から配給された石炭「おこり」で火を起こします。
七輪の上にセメント袋をのせ、ホルモンと野菜を焼き、できあがったホルモン鍋を家族や炭住の人たちと一緒に食べていました。
やがてホルモン料理は、繁華街の飲食店で提供されるようになり、一般家庭にも普及していきました。
現在は田川市内の飲食店でも提供されています。
ホルモン鍋を提供している飲食店
炭坑時代、商店街はたくさんの人の暮らしを支えていました。そして、映画や音楽など娯楽文化の中心でもありました。その賑わいは「肩が触れないと歩けない」と言われるほど。炭坑時代から続く「元気」と「人情」は、今でも商店街のあらゆるところに残っています。
田川市には「伊田商店街」と「後藤寺商店街」の2つの商店街があります。季節ごとのセールはもちろん、バナナのたたき売りや夜市など大人から子どもまで楽しめるイベントを催していました。
昭和30年代の後藤寺商店街
昭和40年代の伊田商店街
現在も、シャッターアートで通りを飾ったり、お買い物市やイベントを開催しています。
田川では、「石炭」と「石灰石」の両方が豊富に採れました。炭坑時代、「石炭」は「黒ダイヤ」と呼ばれ、「石灰石」は「白ダイヤ」と呼ばれていました。「石炭または石灰から作るコークス」と「石灰石」を釜で一緒に燃やして「生石灰」とし、それを水と反応させて作られる「消石灰」は「漆喰(しっくい)」原料の一つ。「漆喰」の原料になる「消石灰」の製造は100年以上前から続く田川の代表的な産業です。田川は漆喰製造の地として最適だったのです。
田川の漆喰メーカー田川産業株式会社では、江戸時代から伝わる「土中窯」という焼成炉を使い、少量の塩を混ぜる「塩焼き工法」を用いています。塩焼き工法では1~2日間という長い時間をかけて焼きあげます。その結果、不純物が取り除かれ、漆喰に適した結晶の大きな消石灰ができ、その消石灰に糊とスサを加えることで『漆喰』となります。この漆喰は大阪城をはじめ、様々な重要文化財などにも使用されています。
土中窯